こんな話がある。『京都大学時代の菊池寛は、貧乏で三度の食事にも困っていたので、理容店(床屋)の二階に間借りして、床屋の女下駄の古いのをもらって通学していたこともあった。そして学校から帰ってきて、暇さえあると、階下の床屋におりて行って、主人から将棋を教わっていた。彼は、金がないので外出もせず、勉強に疲れると将棋に時間を費やしたくらいで、彼が将棋に自信を得たのは、貧しい学生だった自炊時代の賜であった』(松山悦三「文壇よもやま話」)
菊池寛の半自叙伝をみると、この理容店は、出町橋の東詰で開業していた、佐野春松というひとで、おそらく初段の力があって、でぶでぶ肥った好人物だったと述懐している。
『新進作家として世にみとめられてから、生活にも余裕ができたころ、京都の文芸講演会に芥川龍之介と出かけたときだった。ある日、彼は酒の一升瓶をさげて、大学時代、自炊の間借りをしていた床屋を訪れた。「まあ、菊池はん、久しおすなあ。えらい小説家になりやはったっておめでとうおす。さあ、おあがりやす」と、彼を奥の間に通すと、すぐに将棋の盤を店から持ってきた』
将棋をおしえてもらったお礼のしるしの一升瓶を前にして、佐野春松は『いっちょ、さしまひょうか』と、久しぶりに対局したが、寛は、負けるたびに冷や酒一杯を飲まされて、酔いつぶれた。菊池寛は、酒は弱かったのである。学費をだしてもらっていて、できるだけ倹約していたときの将棋道楽に、佐野春松の理容店は、忘れがたい思い出だったのだろう。
具体的な記憶に乏しいと前書きのある「半自叙伝」に、京都の理容店を書き残している。
参考資料:「文壇よもやま話」(松山悦三)、「半自叙伝」(菊池寛
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